幻のオリンピックⅡ ~札幌決定に欣喜雀躍~
幻のオリンピックⅠの続き。
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札幌観光協会1936年12月15日発行のパンフより、札幌市公文書館所蔵
「謎のオリンピックポスター」と思っていた画像は、札幌観光協会が発行したパンフレットの表紙を飾るイラストだった。札幌市公文書館で手帳サイズのパンフを手にして見たのだ。日本語版と外国語版の二種類あった。1936年12月15日の発行だから札幌がオリンピック開催地に決まる半年前のものである。それで「競技開催候補地」となっていたのだろう。
オリンピック冬季大会札幌に決定!
北海タイムス1937年6月1日切抜き 札幌市公文書館所蔵
けっきょく満場一致で札幌開催が決められた。新聞の見出しに「待望の札幌決定に全道興奮と歓喜の坩堝(るつぼ)」と書いてある。やれ提灯行列、旗行列とエライ騒ぎだ。
当時の札幌市民がいかに喜んだか想像に難くない。そして中島公園はスケート会場と決まった。スピード、ホッケー、フィギュアの会場である。
「興奮のるつぼと化す」など熱気に溢れた状態を表す「るつぼ」は、坩堝の中が灼熱の状態にあることから比喩的に用いられるようになった。(語源由来辞典)
開催となると役員とか大変だ。先ず、国際大会での審判経験者だ。苫小牧にスピードとホッケーの経験者が2,3人と心もとない。フィギュアは道内にたった一人、東京や関西にいる筈だと言う。当時の交通事情では汽車、連絡船、汽車の乗り継ぎとなる。オリンピックまで3年あるから何とかなるとの算段だ。
外国の一流選手が俄か仕込みの日本人審判の判定に納得するかとの心配もある。500mのスピードの計時でマチマチな時間のストップ・ウォッチでいいのか。この問題も解決しなければならない。
とにかく決まった以上、一から万事、この3年間に養成しなければならない。英独仏語に堪能な人を見つけて、完全な氷面と完全な役員を揃えなきゃならないのだから、あーだーこーだー言ってる暇ない。国際オリンピック委員会で札幌開催を決めたのだから大丈夫だろう。というような雰囲気だった。以上は、冬季オリンピック札幌大会開催決定当時の新聞(北海タイムス)を読んで私が要約したものである。
冬季大会実現に歓喜爆発! 提灯行列旗行列
北海タイムス1937年6月14日切抜き。 札幌市公文書館所蔵
アジアで初めて、そして世界で5番目に開く冬季オリンピック札幌大会。そのメイン会場の一つが中島公園である。大勢の観客が見ることができるスケート競技の全てが中島公園で行われるのだ。こんな素晴らしいことはない。
しかし何故か、このことを知っている人は少ない。2020年東京オリンピック決定後、幻のオリンピックとして戦争のため返上した1940年東京大会が話題に上った。それに連れて同年開催の札幌冬季大会も少しだけ知られることになった。
オリンピック開催は歴史的にみると平和の証である。それにしても中島公園が世界のひのき舞台になるという事実があったのに公園内には、それを示す片鱗もない。
冬季オリンピック札幌開催決定を祝う札商生。 札幌市公文書館所蔵
当時の新聞報道によると、300万道民は欣喜雀躍(きんきじゃくやく)して札幌開催を祝ったと言う。昼夜にわたり祝歌を高らかに歌いながら旗行列、提灯行列をもってオリンピックの札幌開催を盛大に祝ったそうだ。
「男子は提灯行列、女子は旗行列。『世界の舞台札幌』を歌いながら行進するのです。みんな手に手に提灯を持っていますね」
「これから五輪マークを先頭に担いで提灯行列に行くところだな」
「関係者だけで4000名、それに提灯行列の男子学生と旗行列の女学生ですから盛大なものです。文字通り欣喜雀躍ですよ」
「それにしても昔の人は教養ありますね。きんきじゃくやくですよ」
「なんだそりゃ?」
「雀が踊り歩くように小躍りして喜んだということです」
第4回冬季オリンピック大会出場7選手の壮行撮影?
第4回冬季オリンピック大会(ドイツ)出場7選手 札幌市公文書館所蔵
推測だが、これからオリンピックに出場する選手の「壮行撮影」だろうか。選手全員がスタートの姿勢をとっている。「行くぞ!」という意気込みが表れている。この写真からは、やる気満々の雰囲気が伝わって来る。
写真は1935年2月11日、中島公園で開かれた氷上カーニバルで撮られたもの。スピードスケート選手全員が並んでいる。後ろで立っているのは氷上カーニバル参加者。選手に期待し励ましている様子が伝わってくる。
戦争の為中止 ~オリンピックは幻となる~
北海タイムス1937年9月8日切抜き。 札幌市公文書館所蔵
右往左往しながらもオリンピック準備は着々と進められたが1938年7月18日に日本政府は中止を決定した。残念なことだが戦争とオリンピックは両立しない。日中戦争が激化した為の辞退である。
この時は日本が返上しても代替地が指名されたが、第二次世界大戦の勃発で代替地開催も中止となる。オリンピック返上は来るべき危機の序章に過ぎない。その後の戦争で膨大な命と財産を奪い奪われることになった。
結局第5回冬季オリンピックは第二次世界大戦の終結後、1948年にスイスのサンモリッツで開催された。従って1937年~1947年の間、オリンピックは開催されなかった。この間に戦争により失われた人命は5千万人以上と言われているが、余りにも膨大で正確には分からないそうだ。
もし日本が…、そして世界がオリンピック開催に全力を尽くしていたら、これほどの犠牲者は出なかったと思う。ボタン一つの掛け違いが戦争へと拡大する可能性がある。幻で終わった東京(夏季)・札幌(冬季)大会もボタンの一つかも知れない。
札幌での冬季オリンピック開催は、中止から32年後の1972年に実現した。このころになると冬季オリンピックの規模も大きくなり、手狭な中島公園の出番はなくなってしまった。もし2026年の冬季大会が札幌に決まったら、一競技くらいは中島公園で開催してほしい。歴史的にも意義があると思う。
第5回冬季オリンピック札幌大会スケート競技場予定図
冬季オリンピック札幌大会スケート競技場予定図 札幌市公文書館所蔵
この中で現在もほぼ同じ場所にあるのは(3)の菖蒲池。それ参考に現在の場所を考えてみた。
競技場予定図の説明 ( )内は現在地の参考
1.スピード等、屋外リンク予定(文学館、体育センター近くの広場)
2.フィギュア等、屋内リンク予定(札幌コンサートホール付近)
3.中島ポンド屋外練習リンク(菖蒲池)
4.豊平川
5.女学校(札幌パークホテル)
6.こども用プレイグラウンド(九条広場)
7.弥彦(伊夜日子)神社
8.札幌招魂社(札幌護国神社)
9.このマップにMuseumと書いてある?(ボート乗場近く)
中島公園の資産と活用を考えるシンポジウム開催
ところで現在の話題だが、2011年10月22日「中島公園の資産と今後の活用について考える」をテーマに文学館講堂でシンポジウムが開かれた。
中島公園について、今ある資産をどのように活用して行くかという視点で意見交換をし、私もパネリストとして参加した。最後の質疑応答では、来場者より活発な発言ががあった。その中で次のような意見があった。歴史的に意義のある場所については記念碑のような形で残すこと。そして、来園者を案内する為の「情報センター」を設置すれば歴史も理解され易くなる、というものである。