幻のオリンピックⅠ ~オリンピック決定以前のスケート~
先ず、中島公園におけるスケートの歴史を振り返ってみたい。
1877(明治10)年 札幌農学校の米人教師が、小川に張った氷の上で滑ったとの記録がある。
1891(明治24)年 農学校二期生の新渡戸稲造がアメリカから靴に取り付けるスケート3足を持ち帰る。
1896(明治29)年 このころから中島公園でも池で滑るようになる。
昔の池(今の菖蒲池)、建物はライオン食堂。 札幌市公文書館所蔵
1918(大正7)年開催の開道50年記念北海道博覧会で建設された迎賓館は、閉会後は「ライオン食堂」として利用された。いつ解体されたか不明だが、1931(昭和6)年頃まであったらしい。
1920(大正09)年 札幌スケート協会は中島公園の池に約900平方メートルのリンクを作る。
1921(大正10)年 2月11日、第1回札幌スケート大会開催。
1924(大正13)年 第1回全道中等学校氷上競技選手権大会開催。
1925(大正14)年 2月11日の夜、第1回氷上カーニバル開催。
1928(昭和03)年 第1回氷上競技選手権大会開催。
ライオン食堂(開道50年記念北海道博覧会の迎賓館)市公文書館所蔵
昔ポンドと呼ばれた菖蒲池はスケートのメッカ
ポンドと呼ばれた池に造ったスケート・リンクは凍った氷が膨張して割れるのを避けるため、周囲に30cmばかりの隙間を作っていた。つまり、大氷盤を水の上に浮かせていたのである。そして、中島公園では着々とスケート場を整備し、各種のスケート大会を開き、氷上カーニバルのような大きなイベントも開催していた。
1896(明治29)年中島公園の池でスケートをする人が現れ、1921(大正10)年には「第1回札幌スケート大会」を開いた。1931(昭和6)年には札幌スケート協会恒例の氷上競技大会も11回を重ね、更に発展。これらの大会から、後の国際的有名選手も育って行ったのである
スピード、ホッケー、フィギュア等も行われた。 札幌市公文書館所蔵
氷上カーニバルは中島公園の池上で1925(大正14)年から行われ、札幌市民の間に次第に定着。宮様が参加する氷上カーニバルにまで発展した。
1928(昭和3)年秩父宮殿下を迎えたカーニバル。市公文書館所蔵
黒澤明監督の映画『白痴』でも紹介された氷上カーニバルは、池上で開催されていが、最終的には中島球場の人工リンクに移され、1974(昭和49)年まで続いた。
参加者の仮想で盛り上がる氷上カーニバル。 札幌市公文書館所蔵
黒澤映画で表現された幻想的な氷上カーニバルのシーンは、現実の中島公園をはるかに超えて、少し怖い夢の世界を見ているようだった。
1937(昭和12)年、ワルシャワで開かれた国際オリンピック委員会(IOC)総会で札幌開催を決定。スピード、フィギュア、ホッケー等のスケート会場は中島公園に決定した。
謎のオリンピック・ポスター
「札幌決定は事実だし中島公園はスケート会場に決定しました」
「しかし、競技結果も出た選手の話も聞いたことがない」
「まあ、そう言わずにこれを見て下さい」
The 5th. Olympic Winter Games
第5回冬季オリンピックに関する画像 市公文書館所蔵
1937(昭和12)年に札幌開催をIOCで決定したことは事実と確認しているが果たして実施されたのか。開催決定後どうなったのか。
国際会議で決めたことだ。よほど重大な理由でもない限りひっくり返ることはないはずだ。中島公園でのスケート競技開催は、一体どうなったのだろうか?
次回に続く → 幻のオリンピックⅡ札幌決定欣喜雀躍
追記 2013年3月
「中島パフェ」はこのページを通じて札幌日本大学高等学校放送局のビデオ製作に協力しました。タイトルは 「オリンピック冬季競技物語」
~雪に不安なき札幌 大会よ輝かしくあれ!~
主要参考文献
さっぽろ文庫84 『中島公園』札幌市教育委員会編 北海道新聞社