消えた素敵な空間

山内壮夫ワールド

野外彫刻の保全

残せなかった景観

中島公園・昔と今

山内壮夫ワールドとは

1958(昭和33)年7月5日から8月31日まで「北海道大博覧会」が開催。その後博覧会の収益でバラなどを集めた百花園、噴水のある中央広場を開設した。そして山内壮夫作の彫刻5体が順次設置されて行った。


「笛を吹く少女」の解説を聞き清掃をする小学生。 2010年9月

百花園にはの笛を吹く少女、母と子の像、猫とハーモニカ、鶴の舞、噴水の中央には森の歌が設置された。平成の再整備で百花園等は廃止されたが、4体が百花園跡地の「香の広場」に残され、森の歌はブロンズに再鋳造されて九条広場に設置された。

役目は次世代への継承

シニア世代の最も重要な「仕事」は次世代への継承と思う。農業、工業、商業、家庭等の仕事をして来た人には継承すべき技術や技能がある。しかし、「空の交通整理」に従事していた私には継承すべきものが何も無い。定年後は中島公園を良好な状態に維持して次世代に引き継ぐことを「仕事」と思うことにした。どれだけ出来るか分からないが精一杯やろうと思っている。

思い出の山内壮夫ワールド(昔の「百花園」)

中島公園の歴史を調べると札幌の歴史が見えてくる。2013年7月、札幌市公文書館が開館した。その所蔵写真を見てビックリした。そこには今の中島公園では見られない美しい「森の歌」の写真があったのだ。

噴水の中心に据えられた山内壮夫の「森の歌」。札幌市公文書館所蔵

この写真は背景にビルがあったり仮設された小屋が並んでいたりしていて少々見苦しい。おすすめの景観ポイントはこの画像の反対側にある。後ほど「消えた素敵な空間」の中でで紹介するつもりだ。

とりあえず噴水の中に立つ美しい「森の歌」を載せてみた。心の中でビルと小屋を消して見れば、すっきりした景観がイメージされるだろう。

公文書館には、下に示す「百花園(1959年~1995年)」とその周辺の空撮写真もあった。この写真の左側は今でもある菖蒲池、その下の方に天文台の白いドームが小さく見える。右上が中島球場だが、今は撤去され文学館を含む緑のオープンスペースに変わっている。


1972年5月空撮,野球場,百花園,子供の国が見える。札幌市公文書館所蔵

右半分中央に百花園全体が見える。上の方が半円形なっているが、半円の中央に見える白い点が「笛を吹く少女」、その右下のX状の真ん中の四角い人工池の中に「母と子の像」。そして、そこから斜め線が延びている。 

右側の白い点が「鶴の舞」、左側の更に小さい白い点が「猫とハーモニカ」と思う。そして、その右下の三重丸の真ん中に「森の歌」がある。

次の「消えてしまった素敵な空間」に掲げる3枚の写真を見て、このように推定した。「森の歌」「笛を吹く少女」については後ほど示す百花園のマップと照合して間違いないと確信する。「母と子の像」については下に掲げる二枚目の写真からほぼ間違いないと判断できる。「鶴の舞」と「猫とハーモニカ」については正直に言って自信がない。もう少しハッキリした資料がほしいところだ。

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消えてしまった素敵な空間

下の画像には冒頭で紹介した「森の歌」が藻岩山を背景として小さく写っている。山内壮夫が描いた公園のデザインは、この方向から見た百花園であり、「森の歌」ではないだろうか。

青空の下にそびえる藻岩山をバックに噴水がある。噴水に囲まれてる「森の歌」が立つ左側に「鶴の舞」があり、右側に「猫とハーモニカ」が小さく見える。

1987年9月11日 藻岩山を背景に3体の彫刻 札幌市公文書館所蔵

この画像では見ることができないが、手前には水の中に設置された「母と子の像」(次の画像)がある。「母と子の像」と「森の歌」、そして藻岩山が一本の線として繋がっている。そのような観点から見ると百花園は藻岩山を借景とした舞台ではないかと思う。残された彫刻にも新たな舞台が必要だろう。

長い間、札幌に住んでいるので百花園にも行った筈だが、なぜか記憶が薄い。若い頃は奇麗な花や景観などを楽しむ余裕がなかったのだろう。

今にして思うと、とても残念だ。美しい風景をしっかりと記憶に留めて置けばよかった。写真に撮って置けばもっと好かった。昔は家族・友人等、人ばかり撮っていて、風景などは人物の背景としか思っていなかった。


1987年9月11日 後ろから見た「母と子の像」 札幌市公文書館所蔵

母と子の視線の先には、人間・動植物等の自然が刻まれた「森の歌」があり、更にその先に藻岩山がある。そして一連のオブジェの最後尾に位置するのが「笛を吹く少女」。笛を奏でている少女の姿が美しい。

藻岩山から少女像まで一本の線でつながれている。北海道の自然を背景に、それとの調和を図りながら5体の作品が設置されている。これらの彫刻はセットのはずだが平成の再整備でバラバラになり現在に至っている。百花園という舞台を失った彫刻が寂しそうに見えるこの頃である。

「笛を吹く少女」周辺ではボランティアによる清掃が行われている様だ。

いい写真だが、彫刻が単体で写っているのが欲しい。どこかにないだろうか?

← 1989年4月15日 笛を吹く少女
  札幌市公文書館所蔵

昔は、付近の住民が中島公園を誇りに思い、積極的に清掃活動などを行っていたと聞いている。 

ボランティアが定着する以前のことだが住民の意識は高かった。そして、今でもその様な意識は古くからこの地に住んでいる人々に受け継がれているようだ。鴨々川の清掃も町内会の手で定期的に行われている。

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景観全体が山内壮夫ワールドだった

5体の彫刻は、札幌とゆかり深い彫刻家,山内壮夫の作品である。無限に広がる青空と藻岩山を背景に、花と緑で飾られた空間がある。山内はそこに5体の彫刻を配置して、一つの作品にまとめ上げたのではないだろうか。


1987年9月11日 噴水の真ん中に「森の歌」 札幌市公文書館所蔵

「素晴らしい景観ですね。私は山内壮夫ワールドと呼んでいます」
「ちょっと待てよ…、どこかで聞いたことあるぞ」
「まあ、いいじゃないですか」
「百花園は北海道大博覧会の跡地を利用して出来たんだな」

「そうですね。1959年の開園で1995年には早くも閉園しています」
「花の命は短くて、たった36年か」
「早すぎる閉園ですね。それで良かったのでしょうか?」

1958年は日本が発展途上にあり、生活は貧しくても将来に希望を抱いていた時期だった。まさにその時、北海道大博覧会が開かれた。その記念事業として造られたのが「百花園」であり上の画像「中央広場」である。

いずれも1995年からの再整備計画で緑のオープンスペース、即ち芝生の広場となった。現在この広場には「香りの広場」と呼ばれている。

これが本来の姿、「猫とハーモニカ」と「母と子の像」


「猫とハーモニカ」には耳がある。いつからなくなったのか不明だが、私が2001年に見たときは、既に耳が無かった。 札幌市公文書館所蔵


百花園があった時代、「母と子の像」は水の中。 札幌市公文書館所蔵

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野外彫刻の保全

野外彫刻の保全(百花園のコンクリート彫刻の場合)

1958年に開かれた「北海道大博覧会」の記念事業として「百花園」と「中央広場」が整備されたが、この二つは一体になっている。百花園には4体の彫刻、中央広場には「森の歌」が設置された。「森の歌」については平成の再整備の中で長期保存に適したブロンズ像に再鋳造され九条広場に移設された。

問題は「百花園」跡地に残された4体のコンクリート像である。コンクリート建造物の耐用年数は大体は、50~60年が目安とされている。4体とも50年以上経過し劣化が著しくなっている。「札幌彫刻美術館友の会」では4年前からボランティアを募り経年劣化コンクリート像4体の補修作業を行っている。

補修作業については後述するとして、現状について簡単に触れた後、ここに至るまでの経緯について分かる範囲で説明したいと思う。

芝生の広場(香の広場)はかっての「百花園」


ここから見る藻岩山も高層ビルに隠れ始めている。札幌コンサートホール・キタラ前の大きなポプラは危険木として伐採された。「笛を吹く少女」だけが50年余り前とほぼ同じ位置にあり藻岩山の方に向いている。


1987年当時の百花園から藻岩山を望む。 札幌市公文書館所蔵

25年前のほぼ同じ場所の画像。当時は「百花園」と呼ばれていた。正面の藻岩山は変わらないが高層ビルがないので開放感がある。右手の大きな木は札幌コンサートホール・キタラ前にあったポプラ。2006年に危険木として伐採された。

彫刻の配置は正面に「森の歌」、左手に「鶴の舞」、そして右手に「猫とハーモニカ」。この画像の外になるが手前の池の中に「母と子の像」、更にその後方に「笛を吹く少女」が立ち、自然と融合した山内壮夫の世界が広がっていた。

百花園(1959年~1995年)は藻岩山を借景とし、綺麗に整備されていた。中島公園のほぼ中央に位置する素晴らしい施設だった。彫刻「森の歌」を中心に据えた噴水は中島公園のシンボル的存在であった。

平面図で確認する「山内壮夫ワールド」

先ず、空撮の画像で場所の確認。ぼぼ真ん中が百花園と中央広場。

1972年の中島公園、菖蒲池だけは変わらない。 札幌市公文書館所蔵

以下の平面図は札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」より切り取り。


左側のひと塊が百花園で右側の丸い噴水池の中心に「森の歌」が据えられていた。円形の周囲を含めて中央広場を形成していたのではないかと思う。私自身はこの二つをまとめて百花園と理解していた。

左側の半円形の中央に「笛を吹く少女」、百花園中央辺りの四角い池中に「母と子の像」、そして中央広場の中心に「森の歌が」配置されている。この3体の彫刻は一本の線上にあり、いずれも藻岩山方面に向いている。


上図左側の半円形状部分を拡大。彫刻と書いた場所に「笛を吹く少女」。


右側の円形状部分を拡大。中央の彫刻は「森の歌」

以上の平面図は札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園及記念広場平面図」より切り取り。

2010年~2013年 野外彫刻補修作業一巡

平成の再整備で「森の歌」はブロンズ像で再鋳造されて九条広場の中島児童会館前に移された。そして4体のコンクリート彫刻は百花園の跡地、緑のオープンスペースとなった「香りの広場」に再配置されている。

しかしながら、いずれの作品も制作後50年以上経過し、著しい経年劣化を示している。 そんな状況の中で…、

「保全対策は今でしょう!」と、立ち上がったのが「友の会」だった。野外彫刻の調査・清掃・啓蒙活動に実績を重ねてきた「札幌彫刻美術館友の会」、略称「友の会」である。

そして、補修作業は一巡した。2010年「猫とハーモニカ」、2011年「母と子の像」、2012年「笛を吹く少女」、2013年「鶴の舞」と毎年1体ずつ仕上げ、4年間に亘る補修プロジェクトは終了した。パーマシールド処理の有効期間は5年なので来年は休み、2015年から彫刻補修作業を再開することにしている。

2010年8月 第1回野外彫刻補修作業「猫とハーモニカ」


第1回目は子供達に人気のある「猫とハーモニカ」。友の会会員は高齢者が多いが、若い人も、その子供たちも参加してくれた。先ず彫刻を綺麗に洗い、乾かした後パーマシールド塗装による劣化防止処置を実施した。

初めての劣化防止作業を「猫とハーモニカ」で試行することにしたのは、高さ80cmと低く作業がし易いことがその理由。成功を確認した上で次の像を手がけることにした。経年劣化したとはいえ大切な美術品だから慎重に対応しなければならない。

2011年7月 第2回野外彫刻補修作業「母と子の像」


前年の経験を踏まえ、コーティング前に徹底した清掃作業を行うことにした。7月10日・19日・20日と清掃を重ねてから、パーマシールド塗装を行った。

友の会の熱心な活動が外部の方々にも知られるところとなり、今回は札幌コンサートホール・キタラの方々も参加してくれた。

ところで、「好いことだから勝手にやっていい」と思ったら大間違い。先ず当局の許可が必要である。 準備作業は、この彫刻はどこで管理しているか調べるところから始まる。

この時点では彫刻管理の窓口はバラバラだった。中島公園内にあるから公園に関する部署というような簡単な話ではなかったそうだ。

2012年6月 第3回野外彫刻補修作業「笛を吹く少女」


パーマシールド液の塗布にはコンクリート表面の乾燥が不可欠だが、幸い天候には恵まれた。液を塗りつける前に徹底した清掃が必要なことは前2回の経験で分かったこと。例えば上の画像にあるように布で彫刻を包んだりした。

彫刻を奇麗に洗ったら、濡れたシーツをかけて包む。水分を充分に彫刻本体に含ませて3時間ばかり放置すると汚れがきれいに取れるのだ。その後、更に徹底的に清掃して一日目の作業は終了した。

この方法は前回の「母と子の像」から取り入れた。 そして彫刻を2回清掃して3回目にパーマシールド塗装を行うことも定着した。補修方法も経験を重ねているうちに次第に進化して行った。

2013年8・9月 第4回野外彫刻補修作業「鶴の舞」


今までは天候に恵まれたが、そのせいか今回は倍返し? 悪天に悩まされた。8月の晴天は片手で数えるほども無かった。パーマシールド塗装は不可能だし、雨の中の清掃も楽じゃない。

しかし、好いこともあった。雨の中を元気に走り回って彫刻を探す小学生との出会いがあり、図らずも即席彫刻説明会の開催となった。雨の中、子供たちが熱心に説明を聞いている姿が頼もしい。何と言ったってこれからの社会を支えるのは子供たちだ。 全体の内容 → 野外彫刻保全作業

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素晴らしい景観を残す道はなかったのだろうか?

再び山内壮夫ワールド思い浮かべてほしい。この空間は大きく変化した。既に藻岩山はビルの陰に隠れ始めている。花と緑と噴水のある「百花園」はなくなり、噴水の中心にあった「森の歌」も姿を消している。

百花園の跡地は芝生の広場となった。右側の大きなポプラは、危険木として切り倒されて今は無い。藻岩山もビルの影響で景観が崩れている。

こうなってみれば、2002年の中島公園再整備に伴い「森の歌」が児童会館前に移設されたのは、必然かもしれない。ところで「森の歌」は、移設に際し長期保存に適したブロンズで再鋳造された。


「森の歌」の周りは花の広場になる計画があった。 2011年7月撮影。

約半世紀前、青空と藻岩山をバックに、開放的で美しい空間が広がっていた。そこには、それぞれが素晴らしい個性をもつ5体の彫刻が配置され、景観そのものが、まるで芸術作品の様だった。しかもその中心は「森の歌」だった。

しかし、それらは幻のように消え去ってしまった。惜しいことをしたと思う。野外彫刻を含めた景観を、そのまま残す道はなかったのだろうか。

残りの4体の彫刻は、百花園とほぼ同じ場所に造られた芝生の広場(香りの広場)を囲むように、場所を変えて配置されている。

母と子の像 2011年7月撮影

笛を吹く少女 2011年7月撮影

鶴の舞 2011年7月撮影

猫とハーモニカ 2011年7月撮影

こうして見ると、花と緑に囲まれた彫刻もいいものだと見直している。ひっそりとたたずむ「母と子の像」、バラに囲まれて立ち姿が美しい「笛を吹く少女」、緑をバックにした「鶴の舞」、子どもたちが座って遊べる「猫とハーモニカ」。 

それぞれに趣があって素晴らしい。 しかし、「山内壮夫ワールド」は消えてしまった。人・動植物をふんだんに刻んだ「森の歌」は移設され、ビルなどの建設で藻岩山の景観も崩れ始めている。何よりも彫刻たちのステージである「百花園」が消え去ってしまった。

コンクリート彫刻の寿命は長くて60年といわれている。この4体の彫刻については定期的に「札幌彫刻美術館友の会」がボランティアを募り補修作業を続けて行くことにしている。

晴れの舞台は失っても山内壮夫の世界を続けて行くための努力はボランティアの手でなされている。この様な活動を支援する輪が広がれば、いつの日か新しい舞台が構築され、綺麗で住みよい札幌へと繋がるだろうと期待している。

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「中島公園・昔と今」を探り続けたい

1958年の「北海道大博覧会」は子供の国と天文台を生み、豊平館を中島公園に定着させた。そして「山内壮夫ワールド」が誕生した。

1992年の「平成の再整備」構想では、水と緑に加え歴史と芸術の公園を目指すことになった。整備されている部分もあるが道半ばの感もある。

中島公園の歴史は、札幌の歴史そのものと言われ、変化を繰り返しながら現在の姿がある。1回目を「山内壮夫ワールド」とし、順次、いろいろな視点から「中島公園の昔と今」を探って行きたいと考えている。

「中島公園・昔と今」リンク集

中島公園:21世紀初頭に考えたこと
中島公園資産活用「かんたん解説」
資産活用「簡単解説」1.藻岩山眺望
資産活用「簡単開設」2.中島競馬場
資産活用「簡単解説」3.岡田花園

猫とハーモニカの謎
幻のオリンピックⅠ
幻のオリンピックⅡ

行啓通のポプラ並木(地下鉄幌平橋駅付近)
鴨々川ヤナギ並木(キタラ裏)
ランドマークの木(キタラ前)
ムクドリの木(菖蒲池北側の中島)

シンポジウム2010「北の彫刻」(木下成太郎像)

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2013年11月15日更新

野外彫刻関連情報

中島公園の野外彫刻トップページ
中島公園野外彫刻一覧
第2回彫刻クイズラリー(2012年)
第1回彫刻クイズラリー(2011年)

「中島パフェ」関連リンク

札幌市公園緑化協会中島公園
札幌彫刻美術館友の会
札幌市公文書館
エッセー「楽しい食卓朝の食卓」

以下、昔の写真:札幌市公文書館所蔵


上の写真と下の写真に写っている野外彫刻は同じ「笛を吹く少女」。百花園でごみ拾いをする子供たち。少女像の後ろにはパーゴラが見える。1989年4月撮影


今でも子どもたちに受け継がれているボランティア活動。2010年6月撮影


百花園近くの噴水池。1962年4月撮影


母と子の像は水の中。1987年9月撮影


今はない大きなポプラ。1987年9月撮影
以上、昔の写真:札幌市公文書館所蔵

山内壮夫作品の昔と今

昔の百花園(1959年-1995年)に山内壮夫の彫刻が5体あった。それらの彫刻は今でも比較的良好な状態に保たれている。それはボランティアによる清掃と補修作業が行われているからと思う。

補修についてだが、「森の歌」は長期保存に適したブロンズ像として再鋳造されたので問題はない。しかしコンクリートづくりの「母と子の像」以下4体の彫刻の寿命は、せいぜい60年と言われている。

この4体のコンクリート彫刻は一部に鉄筋が露出した部分があるものの、比較的良好な状態に維持されている。

耐用年数が限られているコンクリート彫刻がある程度良好に維持されているのは補修作業と清掃のお陰ではないかと思っている。

彫刻清掃と補修作業は「札幌彫刻美術館友の会」が主催し、ボランティア活動として実施している。

森の歌


札幌市公文書館所蔵
噴水の中にそそり立つ白色の像は、花と緑の中で一段と映えている。彫刻は見る角度によって背景が変わる。

上の画像の場合、仮設小屋とビルが景観の邪魔になっている。これとは逆方向に藻岩山を借景とした方向から見れば「森の歌」は見違えるように美しい。

繰り返しになるが、藻岩山に向かって、「森の歌」「母と子の像」「笛を吹く少女」が直線上にに繋がるように配置されている。

つまり、「森の歌」は藻岩山に象徴される北海道の自然を表しているように見える。その背後に「森の歌」を見つめる母子、そしてその後ろには笛を奏でる少女がいる。

これらがひと組になって景観を形成しているように思う。藻岩山の自然、「森の歌」以下4体の彫刻、そして百花園は切ってもきれない関係と思う。

彫刻「森の歌」には北海道ゆかりのものが所狭しと盛り込まれている。動物が何匹、植物がいくつ、ヒトが何人と数えたら面白いかも知れない。円柱状に繋がっているので数えるのがとても難しいのだ。


前述したように、「森の歌」は1997年中島公園のリフレッシュ工事に伴い、長期保存に適したブロンズ像で再鋳造し、場所も中島児童会館前に移された。

その周りは花の広場として再整備されると聞いていたが、未だに何も実現していない。手を付けない内に16年もたってしまった。 忘れられたのだろうか?


ボランティアによる彫刻清掃が定期的に行われている。高圧洗浄機の利用で、高さ6mのブロンズ像「森の歌」の清掃も可能になった。

洗浄機による水洗い後、洗剤を溶かした水をバケツに入れ、上から流す。その後、再び洗浄機で像全体を清掃する。

背の高い像を下から清掃するのは、かなり難しい作業だ。本格的な清掃となれば足場を組んでの高所作業になる。予算の裏づけが必要となってくるだろう。

母と子の像


札幌市公文書館所蔵
後ろにパーゴラと薔薇の花壇が見える。百花園があった頃の「母と子の像」。母子四つの目が「森の歌」を見ている。あるいは遥か彼方の藻岩山を見ているのだろうか。


「母と子の像」は平成のリフレッシュ工事に伴い「香りの広場」の芝生の上に移設された。コンクリート構造物の寿命はせいぜい60年と言われているが、こうして見ると意外に綺麗な「母と子の像」である。

既に紹介したように、「札幌彫刻美術館友の会」の主催でボランティアによる彫刻清掃と補修作業が行われているからである。


この写真は、「中島公園の彫刻守れ」という見出しの記事と共に、2008年7月10日付けの北海道新聞に掲載された。

2007年の「札幌まつり」の最終日(6月16日)の夜、「母と子の像」は何者かにより押し倒された。そして数日後、花火で目も焼かれた。この様な悪戯が繰り返された。

この事件がきっかけでボランティアによる彫刻清掃が始まった。

清掃作業の中でコンクリート彫刻の経年劣化に気がついた。表面がザラザラして、一部の鉄筋は表面に露出している。

このままでは寿命が尽きてしまう。何とかしなければいけないとの思いで補修作業を行うことになった。


補修作業の様子→ 彫刻劣化防止作業

笛を吹く少女


札幌市公文書館所蔵
背景にビルの一部が見える。そこには「アカシア」の文字がある。多分そこに建っていたホテルアカシアのてっぺんの部分と思う。ホテルの跡地には界隈一の高層マンションが建っている。

アカシアホテルはホテルライフォート札幌となり、豊水通を挟んで札幌パークホテルの近くに場所を変えて建っている。

「笛を吹く少女」は百花園の東端にあって藻岩山の方を向いて笛を奏でている姿で立っている。因みに笛は最初からない。

写真が見つからず、周辺のごみ拾いの中で写っているものから切り取った。なお切り取らないオリジナル写真は冒頭に掲載した。


百花園閉園後は緑のオープンスペースになり、「香りの広場」と呼ばれる様になった。そしてその東端に「笛を吹く少女は」が立っている。薔薇の季節には綺麗な花に囲まれて以前と同じように藻岩山を見ている。

百花園等にあった山内壮夫の彫刻、5体の内「笛を吹く少女」だけが、ほぼ元の位置に再設置されている。手持ちの資料では断定するのは難しいが、そう思っている。

猫とハーモニカ


札幌市公文書館所蔵
百花園時代の「猫とハーモニカ」には、当然耳がある。硬いコンクリート製なので自然に落ちるはずはない。悪戯による破損と思う。


耳が無くなり何となく大人しい感じになってしまった「猫とハーモニカ」だが、子供たちには親しまれている。乗ったりして遊んでいることもあるが、可愛がる気持ちで清掃してくれることもある。

鶴の舞


札幌市公文書館所蔵
背景に藻岩山がかすかに見える。この画像から「鶴の舞」は百花園の南側にあったように考えられる。


今の「鶴の舞」の背景はこんもりとした林になっている。抽象的な作品で私には鶴に見えない。

アイヌの舞踊「鶴の舞」で、両手を開いて着物を持ち上げている姿と聞いたことがある。そう聞けば踊っているように見える。

以上、5体の彫刻について百花園時代と現在とを比べてみた。「森の歌」はブロンズ像になり、長期間保存できる状態になった。

一方「母と子の像」以下4体のコンクリート彫刻は、ボランティアの力で何とか良好な状態に維持されている。しかし、経年劣化は避けられない。

5年毎にパーマシールドによる補修作業をするとして、何時まで持つのだろうか。彫刻が先か私が先か、つい考えてしまう。

山内壮夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア』 2012年12月14日版

山内 壮夫(やまうち たけお、1907年(明治40年)8月12日 - 1975年(昭和50年)4月11日)は、日本の彫刻家。新制作協会彫刻部創立会員。郷里である北海道をはじめ、日本各地に多くの野外彫刻が設置されている。

山内壮夫の来歴

1907年、北海道岩見沢市に誕生。
1925年、東京高等工芸学校(現・千葉大学工学部)工芸彫刻部に入学。
1932年、国展にて国画奨学賞を受賞。
1933年、国画会会友となる。

1936年、本郷新、明田川孝、柳原義達ら国画会彫刻部有志と造型彫刻家協会を結成、後に佐藤忠良、舟越保武らも参加。
1937年、国画会同人となる。

1939年、国画会を脱会し、本郷新、明田川孝、吉田芳夫、舟越保武、佐藤忠良、柳原義達とともに新制作派協会(現・新制作協会)彫刻部の創設に参加。以後、同会を舞台に活躍。

1945年、北海道札幌市へ戦時疎開(1950年まで)。
1970年、中原悌二郎賞の選考委員となる。
1973年、新制作協会運営委員長に就任。
1975年、病のため東京都大田区の病院にて死去。

山内壮夫の作品

労農運動犠牲者の碑(1949年月寒公園)

よいこつよいこ(1952年円山動物園前)
浮遊(1952年旭川市両神橋)
三人(1954年旭川市大雪アリーナ)

母子像(1955年長崎市長崎国際文化会館)

家族(1955年旭川市忠別橋)
風の中の母子像(1955年旭川市新成橋)

宇部産業祈念像(1956年宇部市)

希望(1957年札幌市民会館前)
隼の碑(1957年旭川市新成橋)

家族(1958年新潟市新潟市庁舎)

春風にうたう(1958年札幌市)

森の歌(1959年中島公園)
笛を吹く少女(1959年中島公園)
母と子の像(1959年中島公園)
猫とハーモニカ(1961年中島公園)
鶴の舞(1961年中島公園)

大地(1964年、本郷新、佐藤忠良とともに共同制作、札幌市北海道銀行本店)
鶴の舞(1966年旭川市花咲大橋)

新潟県戦没者慰霊碑(1967年設置新潟市)
新潟震災復興記念碑(1967年設置新潟市)

山鼻屯田兵の像(1967年山鼻日の出公園)

羽ばたき(1970年設置、道開拓記念館)
隼の碑(1970年旭川市花咲大橋)
花の母子像「愛」(1971年札幌市)

飛翔(1972年札幌オリンピック記念モニュメントとして制作、五輪大橋)

風の中の母子像(1986年設置、新成橋)
風の中の母子像(旭川市、北海道療育園)
子を守る母たち(旭川市、北海道療育園)
子を守る母たちI(1973年設置、北海道立近代美術館)
子を守る母たちII(札幌市)

 
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