1960年代後半は「百花園」や「子供の国」がある華やかな時代。札幌パークホテルがオープンし、アポロ11号が月面に着陸した頃である。
大通公園と見間違えそうな中央広場は消えた。 札幌市公文書館所蔵
以下の写真は札幌在住のmisawaさんが、大学時代に撮影した1966年から70年にかけての中島公園である。その写真と歴史的事実を元に華やかな時代を振り返ってみたいと思う。
なお写真と事実との隙間は、管理人nakapaがアレコレ想像して埋めさせて頂いた。一生懸命勉強して一日も早く想像の部分を史実へと、差し替えたいと思っている。札幌市中島公園に芽生えた歴史の芽を枯らさないように育てて次世代に繋げたいと思っている。
1958年「北海道大博覧会」で大人気のウオーターシュート
1958年に開催された「北海道大博覧会」で人気のあったウオーターシュートは、博覧会後はどうなったのだろうか。
1972年5月 空撮、赤丸はウオーターシュート。札幌市公文書館所蔵
画像右側は野球場、百花園と中央広場、子供の国、いずれも現在存在しない施設。一方、菖蒲池の位置は変わらない。ウオーターシュートが菖蒲池南東の小高い築山にあったことが分かる。
空撮写真からウオーターシュートの施設が1972年には存在していたことが分かる。しかし、営業していたかどうかは不明。ウオーターシュートが着水するエリアに水中フェンスがある筈だが、空撮では遠すぎて見えない。
こちらはmisawaさんが1966年から70年の間に撮影した写真。この時点では営業していたことが分かる。左側に水中フェンスが見える。下の写真を見ればはっきりとわかる。今までは写真を見ても何も分からなかったが、次第に明らかになって来た。
左側に杭とロープのフェンスがある。右にウオーターシュート・スロープ、左に建造物、そこには「XX牛乳 XXアイスクリーム」と書いてある。「北海道大博覧会設計図」が残っていれば、調べるときの有力な手がかりになると思う。XXは雪印かな? 次第に資料が揃ってきた。判明したら更新するつもりだ。
ボートに乗ってウオーターシュート見物 札幌市公文書館所蔵
よく見ればボートが着水し「船頭」が両手を広げてジャンプしている。ボートに乗りフェンスに近づいて見ている人は、写真を撮っただろうか?
菖蒲池南(キタラ)側、右側に河口。 札幌市公文書館所蔵
「道博記念事 中島公園百花園 及 記念広場平面図」より切り取り。
ボート乗り場の西側の一部とすると右側に見えるのは中島。この島には1918年に開催された「開道50年記念博覧会」の迎賓館が建てられた。東岸より島までの橋は名誉橋。迎賓館は博覧会後、ライオン食堂として営業された。いつまでかは調べなければ分からないが、そう長くはないと思う。
1964年5月26日 豊平館が国の重要文化財に指定される
1958年に当時の札幌市民会館の場所にあった豊平館が中島公園に移築された。その6年後に重要文化財として国が指定した。移築後市営結婚式場として使われることになったが、重文の公営結婚式場はここだけかも知れない。
豊平館は1880年(明治13年)、札幌市民会館のあった場所に建てられた。意外に知られていないが、文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も前にオープンしている。
本来は開拓使迎賓館・洋式ホテルとして建てたもので、最初に明治天皇が宿泊された。そして、大正・昭和天皇も皇太子時代に宿泊したことがある。完全な洋式ホテルとしては日本最古といわれている。
先ずこのページの掲載写真について説明したい。上の2枚のようにモノクロ写真はmisawaさん提供の写真。そしてカラー写真は管理人nakapaが撮影した写真。その他、札幌市公文書館所蔵写真がある。これについては個別に明記。著作権者を明確にする為このように区別した。
豊平館の色
ある日、中島公園を案内していると「豊平館の色が変わりましたね。昔の色の方が好きです」と言われた。外国在住で30年ぶりの公園訪問だそうだ。私も長年札幌に住んでいるので見たはずだが色まで覚えていなかった。正直言って若いときは関心が薄かったのだ。
一体どんな色をしているのだろうと、札幌市公文書館で調べてみたが、いいカラー写真は見つからなかった。下の写真は1960年9月27日の撮影だが、本当の色を反映しているようには見えない。
ウルトラマリンブルーで塗装される前の豊平館。 札幌市公文書館所蔵
1982年から5年かけて豊平館を改修した。当時のことを豊平館パンフには次のように書いてある。「修復された豊平館の見どころは、館の白い外壁を縁どる瀟洒なウルトラマリン・ブルーで創建当初のよすがを復元したものです」。
比べて見ると、やはりウルトラマリン・ブルーは美しい。昔は宝石として尊ばれた、ラピスラズリ(瑠璃)から造られた高貴な色だそうだ。
「昔の色の方が好かった」と言われると昔を知らない私としては、思わず恥じ入ってしまう。しかし今は違う。ウルトラマリン・ブルー塗装の方が美しいと自信をもって言える。老朽化や移築などで失われた創建時の姿を改修することにより、取り戻したのである。
参考までに付け加えると、終戦前後の使われ方は酷かった。1943年 旧陸軍北部軍飛行第一師団司令部、1945年進駐軍宿舎、1946年三越札幌支店として使用されていた。単なる建物としか見ていなかったのだろうか。
1948年、札幌市中央公民館として社会教育の場となり、更に1958年、中島公園に移築され市営総合結婚式場となる。2012年より改修工事中。完工予定は2016年3月と4年間の大工事である。
豊平館の歴史
1879年(明治12年)起工。
1880年(明治13年)11月 完成。
1880年(明治13年)12月3日
落成式。
1881年(明治14年)8月30日-9月2日 明治天皇が宿泊した。
1881年(明治14年)11月6日
原田伝也に無償で貸し付けて経営させた。
1882年(明治15年)2月 開拓使の廃止にともない、札幌県に移管した。
1885年(明治18年)
宮内省に移管した。
1910年(明治43年)9月 宮内省が札幌区に豊平館を貸し、区が電気を設備。
1921年(大正10年)12月
建物が札幌市に移管した。
1926年(大正15年)11月 市の公会堂の建設が始まった。
1927年(昭和2年)11月 新公会堂が完成した。
1933年(昭和8年)11月3日 国の史跡に指定された。
1943年(昭和18年)2月 旧陸軍北部軍の飛行第一師団司令部に使われた。
1945年(昭和20年)10月 敗戦後、進駐軍が接収し、宿舎にした。
1946年(昭和21年) 三越札幌支店が移転した。
1947年(昭和22年)10月 豊平館が米軍より札幌市に返還された。
1948年(昭和23年)2月 市による整備が終わり、札幌市中央公民館と改称。
1948年(昭和23年)6月29日 史跡指定を解除された。
1949年(昭和24年)9月
札幌市民会館に改称した。
1950年(昭和25年) 国が札幌市に敷地を払い下げた。
1957年(昭和32年)2月19日
中島公園へ移築に伴い。大通の豊平館解体式。
1958年(昭和33年)5月31日 中島公園への移築が完了した。
1958年(昭和33年)9月20日
結婚式場として開館した。
1964年(昭和39年)5月26日 国の重要文化財に指定された。
1982年(昭和57年)5か年計画の修復事業が始まった。
1986年(昭和61年)修復完了。創建当初のウルトラマリンブルー復活。
2012年(平成24年)4月1日より4年間工事のため休館。
今は昔と違う豊平館前の広場
太鼓橋は子供の国(今はキタラ)への園路。左上に木々の合い間からパークホテルの一部が見える。太鼓橋や自然を感じさせる木製の橋、そして東屋もあり、今より楽しそうな豊平館前広場があったようだ。当時の写真を見るとアヒルのような白い水鳥が写っていた。その形からカモメではないことは断言できる。
左上に天文台が見える。従って、ここが豊平館前広場であることがハッキリと分かる。そして豊平館前の池に架かる木橋が天文台側から豊平館側を繋いでいることも分かる。映像の力は凄いと思う。謎がどんどん解けて行く。
平成の再整備以後は、太鼓橋は普通の橋に変わり、手前の橋と東屋は無くなった。すっきりとした反面、娯楽性は薄れた。上品になったのかも知れない。
太鼓橋を菖蒲池側から見た写真で場所を確認。札幌市公文書館所蔵
豊平館の歴史クイズで気分転換
正誤クイズに挑戦して豊平館を考えよう!
問題1:豊平館は戦争中、旧陸軍飛行第一師団司令部として使われた。
問題2:終戦後は進駐軍(米)が豊平館を接収、MP(憲兵)の隊舎とした。
問題3:1946年4月、進駐軍に代わり三越札幌支店が豊平館で営業。
問題4:豊平館は、完全な洋式ホテルとして、最古と言われている。
問題5:豊平館は開拓使が建設した質的に最上級の豪華絢爛の建物。
問題6:明治天皇の北海道行幸(天皇が外出すること)の行在所となった日をもってホテル豊平館のグランドオープンの日とした。
問題7:開拓使は民間に豊平館を貸付け旅館と西洋料理店を開業させた。
問題8:豊平館は上から読んでも豊平館、下から読んでも豊平館。
問題9:1982年からの豊平館改修の見どころは、塗料ウルトラマリン・ブルーで創建当初の塗装を復元させたことである。
問題10:豊平館は文明開化のシンボルと言われた鹿鳴館より3年も古い。
解答は最下段。こちらをクリック → 豊平館の歴史クイズ解答
これからの豊平館 2016年3月リニューアル・オープン
画像は2013年11月15日撮影。全面改修工事中の豊平館。
今回の改修は単に建物の耐震補強と修理だけではなく、豊平館のあり方が大きく変わる工事でもある。今までのように結婚式関連中心でなく、文化財公開を第一とする。それに加えて市民が利用できる施設にする計画がある。
先ず、貴重な建築物である豊平館を完全公開し、北海道開拓の歴史を伝え、学ぶことができる観光施設としてレベルアップする。日中は観光施設として観光客等に公開する。
豊平館をミュージアムと捉え、公開範囲の拡大と充実を図る。開拓使の歴史等を伝える展示、情報発信等を行う。土足入館とし有料とする。その場合全館有料ではなく足を運びやすい無料エリアをつくるべきとの意見もある。それをどう反映させるかも課題と思う。
市民文化施設としては夜間、貸室としてコンサート、講演会等に利用出来るようになる。対象として市民・団体・企業などが考えられている。民間ウェディングサービス会社による結婚式も可能となる。飲食を伴う利用は、ケータリング事業者による対応で可能とする。この様な計画があると関係者より聞いている。
今回の改修で、豊平館本体の北側に明治時代の創建時に存在した付属棟を新設する。そこにエレベーター、トイレ、物品収納機能をつける。因みに創建時の別棟には厨房、浴室、トイレ等があった。
中島児童会館
1949年7月3日、カマボコ兵舎(米軍の野戦用兵舎)をもらい受けて中島公園内に開設したのが始まりである。全国初の公立児童会館としてオープンした。子供のための遊びと学習の催しを行っている。 2009年開館60周年を迎えた。
1958年(昭和33年)7月5日~8月31日北海道大博覧会開催。博覧会終了後の10月12日、博覧会事務所を中島児童会館に転用した。ようやくカマボコ兵舎から脱出して本格的会館をもつことが出来た。画像は二代目児童会館。
二代目児童会館は「こぐま座」と並んで森の中。札幌市公文書館所蔵
従って現在の中島児童会館は一代目のカモボコ兵舎二代目の博覧会事務所跡に続く三代目であり、初めての児童会館専用建物とも言える。1985年完成。児童会館前の広場は九条広場と呼ばれている。
広場には児童会館の他、人形劇場「こぐま座」、遊具のある遊戯広場、子供たちにも親しまれている山内壮夫の彫刻「森の歌」、それに「童話の小道」がある。
「お子様ゾーン」と言ってもいいような場所だが、公園入り口に近い為「クリーン鴨々川清掃運動」等、各種集会の集合場所としても利用されている。
菖蒲池と日本庭園の池に挟まれた池の中道
園路の左側は小さくボートが見えるので菖蒲池と思う。もしそうならば、右側は日本庭園の池であるはずだ。ならばここは「池の中道」。最下段の空撮写真を見ると、そう思えてくるのだ。両方の池を合わせた大きな池の中に、一本の道が通っているように見える。空撮写真にある池の左側で確認できる。
そして現在は、このようになっている。ここは札幌コンサートホール・キタラに行く道。両側に池があって園路には藤棚があり風情のある道となっている。
「札幌まつり」毎年6月14日~16日
中島公園に露店が並ぶと言えば、毎年6月中旬に開かれる「札幌まつり」。残念ながら、ここが何処か分からない。今後資料が揃ってくれば分かる時も来ると思う。歴史の調査は今の中島公園が昔どのような姿であったか知ることから始めたいと考えている。
その他の写真
人々はスーツなど、いわゆるヨソユキを着ている。手前には玩具のような物が山積みにされている。「キッコーマン」との文字も見える。何かのイベントのようにも見える。背景は森だろうか。私にとっては謎の写真だが興味深い。
これも場所がどこかが課題となる写真。中島らしきところにある松の木とイチイは撮影時より約50年たっている現在では、成長したか倒れたか分からない。
松の陰に薄らと見える建物はmisawaさんからの情報と『札幌文庫84中島公園』のマップを照合すると北海道地下資源調査所らしい。もしそうだとすると、この写真は菖蒲池西側から撮ったものと思われる。
日本庭園側から園路を撮ったものとすれば、その向こうは菖蒲池?
残念ながら何処で開かれた何のイベントか分からないが服装が興味深く感じた。行楽に行くのに大人はスーツ、子供は学生服を着るなど時代を反映したお洒落が懐かしい。学生が学帽をかぶる時代だった。
以上のモノクロ写真は札幌市公文書館所蔵と記されたものを除き、札幌在住のmisawaさんの撮影。ご協力有り難うございました。管理人
「わが青春の中島公園」時代は百花園の時代
この時代の中島公園の中心は北海道大博覧会開催を記念してつくられた中央広場。そして博覧会跡地でオープンした「百花園」と思う。百花園の時代は平成の再整備が始まる1995年くらいまで続いた。華やかな37年間だった。
平成の再整備後の中島公園は道立文学館、札幌コンサートホール・キタラが建ち、野球場、百花園、中央広場等、跡地のほとんどは緑のオープンスペースとなる。水と緑の中島公園に加え、歴史と芸術の公園を目指している。
1200株のバラを植え込んだ「百花園」は消えた。札幌市公文書館所蔵