北海道大博覧会は桑園が第一会場で、第二会場中島公園には18館の建物が建てられ130万人の入場者。1958年7月5日から58日間の開催。

博覧会跡地に建った山内壮夫の彫刻「森の歌」


博覧会跡地の「森の歌」1970年代の撮影。札幌市公文書館所蔵
北海道大博覧会を記念して跡地に「森の歌」が建立された。彫刻「森の歌」を中心に据えた噴水は中島公園のシンボル的存在であった。


「森の歌」は永久保存の為ブロンズで再鋳造、児童会館前に再設置。


1970年代後半の撮影、中島児童会館。札幌市公文書館所蔵
中島児童会館が日本初の公立児童会館として発足したのは1949年7月のことである。建物は米軍払い下げのカマボコ兵舎を使用した。博覧会事務所は閉会後中島児童会館となる。

現在使用中の児童会館は3代目、1985年3月にオープした。上の画像は1976年以後の撮影と思う。なぜなら人形劇場こぐま座が建ったのは1976年。写真は建てて間もない頃に撮った様に見える。手前に見える当時のイチョウ並木。綺麗に並んでいるのが印象的だ。

豊平館は博覧会の郷土館と美術館としてお披露目


博覧会開催時の豊平館。「北海道大博覧会誌1959」から
博覧会の前年に北1条西1丁目から中島公園に移築した豊平館は1階は郷土館、2階は美術館として使われた。


2012年4月から2016年3月まで大規模修復工事中。オープンは16年8月ごろか。画像は工事が本格化する直前の豊平館(閉館中)。2012.5.10

東南アジア館(北海道大博覧会絵葉書)


博覧会絵葉書の東南アジア館。札幌のHorikawaさん提供
右側に見える豊平館は郷土館と美術館として初公開された。


豊平館池(仮称)周辺、「北海道大博覧会誌1959」から
東南アジア館の裏は天文台、池を挟んで美術館と郷土館(豊平館)、西側を流れる鴨々川付近に電信電話館と郵政館が並ぶ。


2015年現在の「東南アジア館」跡地。2015.8.19

博覧会で設置された札幌市天文台


雪印乳業館だった札幌市天文台。札幌市公文書館所蔵
博覧会で雪印乳業館として建てられた。当時は天の川が見られた。


雪印乳業館の見学風景。「北海道大博覧会誌1959」から
博覧会終了後は恒久施設として残し、2015年現在も現役として活躍中。


定期的に開かれる夜間・昼間公開の他に、日食などの天文現象に合わせて観望会を開くこともある。2012年5月21日の日食観望会では、この山が日食を見る600人余りの人々で埋め尽くされた。2015.10.1

博覧会跡地には「百花園」を開園(現在の「香りの広場」)

博覧会が終わると、その跡地にバラが咲く「百花園」と噴水のある中央広場が整備された。噴水の真ん中には山内壮夫の「森の歌」が立つ。それを含めて5体の山内作品が、要所に設置された。


博覧会跡地に整備された百花園。1970年代 札幌市公文書館所蔵
左から「鶴の舞」「森の歌」、見え難いが「猫とハーモニカ」が右端。


「母と子の像」は清らかな水の中にあった。札幌市公文書館所蔵
「母と子の像」の後ろに「笛を吹く少女」がある。順序立てて説明すると、笛を吹く少女が百花園の東端にあり、その前方に母と子の像があり、母と子の像は森の歌を見ている。森の歌の遥か彼方に藻岩山がある。

簡単に言うと、笛を吹く少女、母と子の像、森の歌、藻岩山の順で並んでいる。この線から外れて左側に鶴の舞、右側に猫とハーモニカが配置されていた。

百花園廃止後の山内壮夫作品

「森の歌」は1997年9月、札幌コンサートホールの建設に伴う移設を機に、中島公園の表玄関である9条広場に、ブロンズで再鋳造されて移された。その他の4体はコンクリートのまま、百花園とほぼ同じ場所に整備された「香りの広場」に再設置された。

憧れのアメリカ館


背後にアメリカ館等が並ぶ絵葉書は札幌のHorikawaさん提供。
画像上部に中島スポーツセンターの屋根が見える。

この時代の日本人にとってアメリカは科学技術と生活水準の高い夢の国だった。入口には等身大の自由の女神像が置かれた。北極海を潜水航行した潜水艦ノーチラス号の模型が展示されていた。

なぜか石鹸の主原料である獣脂を展示。石鹸で作った彫刻を飾り、石鹸の製造工程を示す展示もある。この時代のアメリカのイメージは清潔だったからか。観客に冷たいおしぼりを提供し、そのため電気洗濯機を2台をフル運転。洗濯機は庶民には手の届かない憧れの家電製品のシンボルだった。

工業と科学の粋を紹介する為「アメリカのオートメーション」と「人口衛星」をパネルと模型で展示、映画「宇宙旅行」「人口衛星」の2本を上映した。

農業としては「大豆」と「小麦」の二つについて、その主産地、用途などについて多角的に解説・展示。また宇宙時代の粉食生活のパノラマと粉食料理の実演も行う。又「アメリカの珍しい切手」も展示。当時の切手収集熱は、今とは比べ物にならないほど高かった。


アメリカ館周辺のイラスト。「北海道大博覧会誌1959」から
左側はオートバイ等の小型自動車館、右は健康と生活館。


今は中島球場も中島スポーツセンターも無くなり緑地となっている。

国鉄館・自転車館


左側は国鉄館、右側は転車館。札幌のHorikawaさん提供
自転車館、国鉄館の裏側を鴨々川が流れる。白鶴橋にも近い。自転車館の目的は自転車産業の現状を紹介し、自転車に関する知識を普及すること。この時代、庶民の足は車でなく自転車だった。発達史、種類と選び方など各社ごとに展示された。自転車優勢時代の博覧会だった。

大量輸送の主役を担うのは鉄道だった。国鉄館の周囲にはD51型小型蒸気機関車を走らせ、館内では北海道の鉄道開拓史のジオラマ、5年後の北海道の鉄道パノラマを展示した。このパノラマ上には、ジーゼルカーおよび最新型列車の模型を走らせたと言う。自転車と鉄道の時代は、その後自家用車と飛行機の時代へと代わっていった。


博覧会南端に自転車館等。「北海道大博覧会誌1959」から
画像右上に「メートル館」と書いてある。これは時代を反映するもので興味深い。1959年メートル法を全面採用、尺貫法は廃止された。商取引が尺貫法からメートル法に統一された年なのだ。 半年後の施行を迎えタイムリーな企画だった。


今は自由広場となり5月の園芸市、6月の札幌まつりの会場となる。

古代生物圏(子供の国の一隅)


「子供の国」にあった古代生物園。札幌のHorikawaさん提供。
中島公園の西側を流れる鴨々川の畔に古代の恐竜が立つ。「過去を知ることは現在を知り未来を予測することに繋がる。ゴジラとかラドンとかいう映画の人気者は、単なる空想の産物ではなく、遠い過去にこの地球上に繁栄をきわめた生物をモデルにしたもの」だそうだ。認識を新たにするために作られたのが古代生物圏だが何となく楽しそう。


鴨々川畔の古代生物園周辺。「北海道大博覧会誌1959」から
近くにはお伽の国、子供の国、演芸場、宗教館がある。古代生物圏は鴨々川べりの3,300㎡の敷地。入口に木の株のアーチを作り、洞窟を設け、中央部に80mの豆汽車を走らせた。古代生物4種、池、岩山、古代人、古代植物などを配置。古代生物すべり台と大壁画も設置した。子ども達が喜びそうな作りになっている。楽しみながら学べるように配慮したようだ。


鴨々川の畔の古代生物圏の跡地、1997年札幌コンサートホール・キタラが建つ。キタラは木々の後ろで見え難いかも知れない。2015.8.19

子供の国(1958年7月~1994年5月)

博覧会ではパビリオンといっしょに「子供の国」が設けられた。空中観覧車、宙返りロケット、豆汽車、豆自動車、人工衛星塔、飛行塔、メリーゴーランド、オクトパス、自動木馬などの大型遊具が揃えられていた。後述するが、人気のウォーターシュートが少し離れた菖蒲池の南側に設置されていた。

子供たちに大人気の「子供の国」。札幌市公文書館所蔵


賑わう「子供の国」。札幌市公文書館所蔵

子供の国は博覧会終了後、常設の遊戯施設としてそのまま同じ場所に残され、札幌振興公社に運営が引き継がれた。1994年5月、子供の国を廃止。翌年に円山動物園内に移転した。跡地には札幌コンサートホール・キタラが建てられた。

1958年「北海道大博覧会」で大人気のウオーターシュート

1958年に開催された「北海道大博覧会」で人気のあったウオーターシュートは、博覧会後はどうなったのだろうか。


1972年5月 空撮、赤丸はウオーターシュート。札幌市公文書館所蔵

画像右側は野球場、百花園と中央広場、子供の国、いずれも現在存在しない施設。一方、菖蒲池の位置は変わらない。ウオーターシュートが菖蒲池南東の小高い築山にあったことが分かる。百花園と中央広場は博覧会跡地に建てらられ、子供の国と天文台はそのまま継続使用することになった。

空撮写真からウオーターシュートの施設が1972年には存在していたことが分かる。しかし、営業していたかどうかは不明。ウオーターシュートが着水するエリアに水中フェンスがある筈だが、空撮では遠すぎて見えない。


こちらは札幌在住のMisawaさんが1966年から70年の間に撮影した写真。この時点では営業していた感じだ。左側に水中フェンスが見える。下の写真を見ればはっきりとわかる。今までは写真を見ても何も分からなかったが、次第に明らかになって来た。

左側に杭とロープのフェンスがある。右にウオーターシュート・スロープ、左に建造物、そこには「XX牛乳 XXアイスクリーム」と書いてある。「北海道大博覧会設計図」が残っていれば、調べるときの有力な手がかりになると思う。


ボートに乗ってウオーターシュート見物 札幌市公文書館所蔵

2015年10月10日更新

北海道大博覧会(第二会場)

中島公園を会場とした最後の大規模博覧会は、1958年夏に行われた北海道大博覧会である。ただしメインの会場は桑園で、中島公園は第二会場となり、18館の建物が建てられた。小樽の第三会場を合わせて、戦後日本の最大の博覧会と言われた。


北海道大博覧会第二会場中島公園

会期は7月5日から8月いっぱいの58日間があてられた。桑園の第一会場が産業見本市的な展示を主としたのに対し、中島会場の方は文化・娯楽の色彩が強く、人気の「子供の国」もあって入場者数は130万人と第一会場をしのぐほどであった。

会場敷地は公園の南半分があてられた。池の東南畔をアプローチ路として、中間あたりに正門が設けられた。門を入るとメイン通路をはさんで左手に科学館、健康と生活館、アメリカ館、小型自動車展示場、右手に菓子館、電波館、住宅館が並び、南端(画像の上)に国鉄館、自転車館、メートル館などが配置された。

北海道大博覧会パンフレット1958抜粋

イラスト→北海道大博覧会第二会場

豊平館に郷土館と美術館

前年から移築改修工事の行われていた豊平館は1階が郷土館、2階が美術館として公開された。博覧会の終了後一般の結婚式場として使われるようになったのである。

このイラストは豊平館、売店、ボート、ウォーターシュート、会場入り口と並び、全体の配置が分かり易く書いてある。
文と画像は一部を除き「北海道大博覧会誌1958(昭和34年)」から抜粋。

子供の国

博覧会ではパビリオンといっしょに「子供の国」が設けられた。当時の案内書を見ると、空中観覧車、宙返りロケット、豆汽車、豆自動車、人工衛星塔、飛行塔、メリーゴーランド、オクトパス、ウォーターシュート、自動木馬などの大型遊具が揃えられていたのが分かる。

札幌市公文書館所蔵


札幌市公文書館所蔵

道内ではかって眼にしたことのないものがほとんどだったというから人気のほどは想像に難くない。博覧会が終わった後、これらは常設の遊戯施設としてそのまま同じ場所に残され、札幌市の外郭団体である札幌振興公社に運営が引き継がれた。

1994年5月8日、子供の国を廃止。1995年4月29日、円山動物園子供の国に再生。その後、2010年9月円山子供の国キッドランドも閉鎖。中島公園で始まった「子供の国」の幕は閉じられた。

天文台

札幌市天文台は、人類史上初の人工衛星スプートニクが打ち上げられた翌1958年、中島公園で開催された北海道大博覧会の雪印乳業館として建てられたものである。

札幌市公文書館所蔵

当時の公園内からは天の川が見られたという。博覧会終了後は恒久施設として残し、現在も使われている。
文:「さっぽろ文庫84中島公園」から

児童会館


札幌市公文書館蔵

1958年に北海道大博覧会開催することになり、その事務所を現在地の児童会館の位置に建設、また開会中は、いわゆるかまぼこ型児童会館を交通センターに転用し、児童会館は長期休館した。

札幌市公文書館所蔵
文:「中島公園百年」山崎長吉から

博覧会終了後、博覧会事務所を新装の児童会館に転用し、10月12日に再開した。1984年9月3日児童会館を新築することになり一時休館した。工事は1985年2月28日竣工、3月26日改装オープンした。

現在の中島児童会館 2011.11.2

第一会場(桑園)及び小樽会場

北海道大博覧会は桑園・中島・小樽(埠頭、祝津)会場で開催。戦後日本の最大の博覧会と、当時は言われていた。

以下の画像は札幌在住のHorikawaさん提供の「1958北海道大博覧会」絵葉書から切り取ったもの。画像の下は絵葉書に書いてある説明文のコピー。


札幌桑園会場 華麗なテーマ館群(中央は演芸館)


札幌桑園会場 農林館と白銀の電力館
(農林館は左側で写っていない)


海の博覧会に湧く小樽街頭

画像の文字は上から、
北海道大博覧会海の小樽会場
埠頭会場
祝津会場
HOKKAIDO GRAND FAIR


小樽埠頭会場 海上自衛艦隊旗艦”にれ”(450屯)等6隻も接岸して……

上記は絵葉書の説明文だが、どうもピンとこない点がある。先ず450トンの旗艦とは小さ過ぎる。”にれ”はフリゲート艦のはず。と言うのは船の名が樹木だからだ。写真を見た感じでは上陸支援艇(LSSL)250トンではないかと思う。LSSLには草花の名が付いていた。たとえば「ひめゆり」「はまゆう」「あやめ」「きく」等。

艦名が「にれ」ならフリゲート艦で1,450トンかも知れない。しかし、人と比べると船が小さく見える。やはり上陸支援艇と思う。

米軍貸与艦艇で発足した海上自衛隊は、当時の世論を意識してか、艦艇に優しい名前を付けた。大きな艦は樹木名、小さな艇は草花名と極めて平和的。いつまでもそのままでいて欲しかった。

しかし、250トンの上陸支援艇6隻を自衛艦隊と呼び、旗艦が450トンとすれば何となく笑える話。この型の船は米軍に返還後廃船処分され、一部は南ベトナムへ供与されたそうだ。

博覧会があった1958年は悲惨な戦争体験を持つ人も多く、心の底から平和を願う人たちが大多数だった。絵葉書にこのようなトンチンカンな説明が付く時代は良い時代と思う。私が求める唯一のもの。平和(管理人)

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博覧会後に整備された中島公園と周辺の空撮写真。札幌市公文書館所蔵

画像は1975年の中島公園、北海道大博覧会終了後17年。大博覧会前年に豊平館(左側屋根が青く白い建物)が南1条西1丁目より中島公園へ移築。「子供の国」と天文台が設置された。菖蒲池と中島球場に挟まれた「百花園」等は博覧会跡地に整備された。中島スポーツセンター(右端屋根が緑の建物)と中島球場は博覧会以前からあった建物。

中島公園における最後の博覧会をきっかけに公園の姿は大きく変わった。以後約40年間、平成の再整備までこの状態だった。この時代が一番賑わった時期ではないかと思う。中島球場、中島プール、中島スポーツセンター、百花園、中央広場の噴水、子供の国、野外ステージ等があった。

そして今でも残っている豊平館、天文台、その後1963年には日本庭園完成、1971年に八窓庵が北4条西12丁目から日本庭園内に移設された。1976年人形劇場こぐま座、1985年三代目児童会館完成。多くの施設で大勢の人が楽しんだ。今でも懐かしく思う人は多いだろう。1958年開催の北海道大博覧会で中島公園は戦後の混乱期を脱出し都市公園としての形を整えたと言われている。

参考文献:「北海道大博覧会誌1958」昭和34年、さっぽろ文庫84中島公園、中島公園百年(山崎長吉)。

  
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